写実描写力(デッサン力)の成長過程に関する考察

例えば1本の鉛筆を手にして紙に立方体を描くと、人は年齢に応じて結果としての絵が変化(それはやはり成長と言ってもいいと思う)する事は想像に難くない。とはいうものの、果たして実際にどのような絵になるのか、いまさら自分で幼児に戻って描くのも無理な話である。そこで、身近な被験者を探し、なだめすかして描いてもらった絵(後出のNo.1〜6は実際の絵を真似ている)をもとに、その後の描写力の推移を、自分の経験を振り返って思い起こしながら、以下にまとめてみました。


『サイコロの樹』 Kawano
●鉛筆・用紙−画用紙(48×60cm)

サイコロ(立方体)を描いてみよう!

その前に、ここでは絵から物を見よう?果たして、 サイコロに見えるかどうか、その度合いを測ろう。
懸命に描いたら、納得しよう。変だな?と見えた ら、また描こう。
徐々に、手が慣れ、紙に慣れ、鉛筆に慣れ、次第に線が思うように引ける。
でも、 やっぱり変だなーと感じるのなら、今度は自分で画面にサイコロを作ろう。

絵では実物は作れないから、本物っぽさの度合いを高めよう。
さあ、よし、描こう!


1.2歳児の満足感。

乳児期の殴り描きの時期を過ぎ、始点と終点が一致する。目の前に置かれた一辺3cm程度の立方体状の積み木を見て、たどたどしくも懸命に稜線(この場合は正方形の各面が直角に曲がったときに現れる辺)をなぞる。四角く描こうとしている様子は窺えるが、線をまっすぐ引くことは、対象物の認知もさることながらこの時期の運動機能では難しいのだろう。

2.5歳児。初めてのサイコロ。

丸が描ける。三角が、四角が描ける。大人から見れば単純な図形も、幼児期に描く図はどこかちぐはぐな結果になる。定規とかコンパスとか、即座に道具の利用が浮かぶのもよいが、興に乗って力を込めて引いた線に、いろいろな表情を読みとり味わえるのも、大人側の見方かもしれない。それにしても、立体である立方体から四角という平面図形を抽出する能力は紙という平面上で格闘することによって培われているように思える。

3.側面描写へのいらだち。

積み木の立方体はスケッチブックの向こう側、作者の眼から40〜50cm程度隔てて、三面が見えるように机上に置かれている。三つの面が見えているにもかかわらず、一面の特徴(正方形)のみ描いてしまう。そこでちょっと悪戯に「こっちの面は無いの?」と声を掛けてみたらこのような結果になった。よく見ると、側面の稜線一つが描かれようとしていたのが判る。しかし、側面に気付きはしたもの絵の中でそれらが実現できず、混乱したなかで打った手が四角周辺に鉛筆の跡として残った。

4.何とかがんばった。

鉛筆を運ぶ手の動きに、その方向や、まっすぐな度合い、終点の位置なども測っていて、目標に向かって進める線の中に刻一刻と制御が働いているのが、横で観察していて理解できた。上の絵から半年後、側面も四角形であることが、絵の中で決着がついた。描く時間も長くなった。面が複数になり輪郭で閉じられることによって、各面の明るさの違いにも気づいたようだ。一つのレベルをクリアすると余裕がなせる技なのか、事実として在ったけれども見えていなかった事柄が見えるようになる。影や敷いた台紙も見えたのだろう。

5.三面と影が見えてきた。

複数の面に気付いたが、上の例では底面を除いた5つの面をあちこちから見て説明した絵となっている。そして、約1ヶ月が経ち、見える3面に落ち着く。斜めから見たら立方体がどのように眼に映るのか、大人にとってもやや難しい課題に子供なりの答を出したようにみえる。只、右側面のカタチがいかにも変なのだが、それは左側面の底辺からのつながりを大切にし過ぎたせいだろう。上の面の右側頂点から下方への稜線もおそらくこんな風かなと思えるが、両者を合わせた右下隅の頂点は作者自身が描き終えてすぐ”?”とした表情になった。観察はいつも部分に終始する。

6.机はまっすぐなんだ。

まっすぐな稜線はまっすぐに。斜めに見えれば角度をつけて。四角形なら四角に。そして、垂直に立つ稜線は絵の中でも垂直に。明るい面と暗い面。机上に落とした影。これで完璧と、意気込んで描いている最中に、「机の上に置いてあるよね」と、口をはさむと、最後に左下に見える水平線が付け加えられた。絵というものは便利な手段だ。それにしても、この絵を見て「四角い立体」であることはおおよそ見当がつく。立体を対象としながら平面図形としかならなかったものが基面(台)を意識すると、そこに立つモノが現れる。モノとは勿論、形態。立体なのである。

7.小学校低学年の統率力。

モチーフそのものは変形しないが、置き方によって、あるいは観察者の視点によって、眼に映る姿が変わる。形を正確に伝えるための方法としては作図(例えば正投影図のような)して寸法を記入する手段もあるが、一瞥して全容が判るという点では絵の方に軍配が上がる。その場合、モノを正面に置いて見るよりは視覚的に全容が判るように斜めに置いて見るのが一般的だ。そうして全て正しく、うそをつかずに描いていく。しかし、モノと絵では三次元と二次元の間に「次元の壁」が立ちはだかり、部分的に追う正しさが結果的にはあだになる。そこで全体的な整合性と折り合いをつける見方が必要になってくる。「まぁーこんな感じかな」という見方である。

8.側面の正面化の名残。

正六面体(立方体、正多面体5種の中の1つ)は、合同な正方形6面で囲まれている。そこで、一つの面が画面と平行になるようにして置くことで、なんとなく正しいだけでなく、少なくとも一面は客観性の高い(一つの面は正方形である)絵が具体化できる。それに、2つの側面を加えた絵は論理的にも視覚的にも適っていることとなる。ただし、都合のよい置き方を設定したにもかかわらず、稜線を、頂角を頼りに辿って見ているうちは、輪郭で囲まれて出来た側面の正方形が、結果としては幾分正面を向いたように見える絵となる。観察は、状況や事態をあるがままの状態から、詳しく知ろうとする姿勢も手伝って相手を起こし正面を向かせる傾向にある。

9.パースペクティブ過多の思春期。

平行な二直線は画面から遠ざかるに従って1点に集まって行くように見える。この線遠近法(パースペクティブ)の原理は、稜線を1本ずつ見ている間は気づかないが、2本(あるいは複数の平行線)を同時に見ることによって納得が行く。絵に奥行きを感じさせるこの方法も、日本では江戸時代末期になって西洋からもたらされたもので、当時はパースに則って描かれた絵を見てびっくりしたらしい。今でも、成人への過渡期の中で、その原理に気づいた時点で、感動の大小の個人差もあるが、驚きには違いない。この驚異的な技法を手にすると、使いたくなるし、頼る。但し、気づいた稜線のみを(原理を理解し、消点を求めた上ではなく)すぐさますぼめることで、奥行き感が過剰になることが多い。

10.明度差が調和し、輪郭が消える。

モノは面で囲まれていて、エッジ(ふち・へり)を伴う場合もあるが、絵に現れるような輪郭はない。事実がそうなのだから、事実に即して見ることは、絵にする場合の手掛かりにもなる。立方体を見るときに、意識的にエッジを除いて見る(勿論想像でだが)と面のありさまが見やすくなる。さらには、輪郭で囲う見方よりもそれぞれの面の明暗差が判別しやすくなる。互いにどの程度明るいのか暗いのか、見ればすぐ判るように思えるが、おおむね隣接する面の差のみ比較してしまう。あるいは一面の中の微妙な差をオーバーに見てしまう。落ちた影も、印象では台の固有色が優って見えて暗さが不足する。ぼんやりと見て、明度差を配置するように心掛けるとバランスがとりやすくなる。

11.意識して線で。

これは、実物を見て描いているのではなく、台上に在る立方体を想定して、画面と平行に一定の間隔で切っていったときに現れる切断図形を、描き連ねたものである。不思議なことに、1本1本の線が合わさると、全体として立体的な立方体に見えてくる。想像上でモノを切るということは、視覚的に見えている範囲を超えて立体としての形態やボリュームの把握が可能になる。さらに、明るい面も白く残したのとは異なり、平らな面としての抵抗感が現れる。見て真似て用紙上に再現するというモノ側からの指令に忠実に従う段階から、作者側がモノに切り込みを入れその反応を活かすという、絵とは描く側の主体的行為であるということを実感し始める。

12.面の方向差をタッチの変化で。

使用する鉛筆の硬さを”H”に限定し、立方体の3面と背景と台(明るいところと影部分の2種)を、明度差をなるべく付けずに鉛筆の筆跡(タッチ)を変化させて描く。上と同様、実物を見ずに描く。立方体の明るい正面は粒子状の跡。上面はそれより横長の点で密に描く。暗い側面(陰面)は隙間なく強く塗りつぶす。背景は正面に似た粒子状の跡を少し柔らかくぼかす。台面は面方向を考慮してパースに則ってクロスハッチングを効かす。台上の影部分は明部分のタッチと立方体上面のタッチの混合である。陰面と影面は他に比較して同じように少し暗いが、両者のタッチは明確に違う。想像による実物の在り方を手掛かりにして、状況の中での各面の方向差や位置を考え、タッチをシンクロさせる。

13.意図した調子の差。

「タッチ」とは、用紙に着けた鉛筆の痕跡。「調子」とは対象物が意図した状態に見えるような相互のタッチの響き合い。例えば、「調子外れ(調子っぱずれ)」といえば正しい音律・音階に合っていないことを指すように、「立方体が台上にある」という見え方に相互のタッチが合っていなければ、”調子が合っていない”ということになる。いろいろな音楽があるように、いろいろな絵のスタイルがある。写実的表現に限定しても人それぞれの表し方がある。上の絵では、立方体正面に規則的な点を並べて打つと、他の面、台、背景、陰影などはどのようなタッチにすると調子が合うのか・・・明度差も考慮に入れて大胆に差をつけてみた。

14.黒い物の一番明るい面は?

光が当たった面は明るく、陰の面は暗い。では、明るい面は白く、暗い面は黒いと言えるだろうか。上の例は、黒く塗装された艶のある立方体を仮定して、やや上方から見た状況の絵である。光源は上方やや左手前。この状況で一番明るい面は立方体上面である。しかし、表面色が黒なので、他の2面に較べてこの面を一番黒く表す方が自然である。物体の表面は、光を受けた方が色・質・面方向・位置が、陰側よりも鮮明となる。日常では当たり前なのだが、白い用紙に黒い素材の鉛筆で描くデッサンでは、ついつい明るい面を白っぽいままで済ませてしまう。

15.質と影。

拾ってきた丸い石を目の前に置き、立方体状に削った物体を想定して描く。台は木製柾目パターンのプリント合板を想定。断層が露わになった石は、3つの表情豊かな面が見える筈だ。物の表面に模様が見えたり文字が印刷されていたり、独特な質の物であったりした場合、3つの面は単に明度差を変えるだけでなく、図柄や色の視覚情報も各面によって変化する。見えている事柄をつぶさに描き写す姿勢は、ともすれば部分的な把握と表現に陥るが、物の表面材質に関しては作者が観察して得た情報量の多さが現実味を高める。もう一つ、ありさまの現実味を高めるには「影」が重要だろう。置かれている状況、接し具合、浮いた距離、位置感など・・影には物だけでは表せない空間設定上の大切な要素が詰まっている。

16.在るということの気配。

目の前のサイコロは単なるサイコロ。事実としてそこにあるのみ。けれども、もし、台の下から台を突き抜けてぬーッと出現したら恐らく人は驚くに違いない。空間を突き破ってそこに立つサイコロの偉容さと、下方から凹まされて四角い穴を穿たれた空間のかたまり、中央から後ずさりする空気の軍勢、立面のそばを通り過ぎる風、明るい上面に幻惑されて一瞬暗黒となる背景と徐々に暗闇に順応してうっすら現れるつかみがたい背景・・・。少し思いこみが激しすぎるかもしれないが、日常の中で私たちは事物や事象にいろいろな形容を冠して表しているのだから、”サイコロが在る事態”に、この程度の視覚を超えた気配を察知しても、あながち虚言とはならないだろう。逆に、絵画という平面世界に想像三次元空間を現出させるには有効な手だてに違いない。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・あとがき・・・・・・・・・・・・・・・・・
上の考察は描写力の推移を下敷きにしたものですが、このように辿ると断定するものではありません。 実際、No.3の絵からもNo.16の気配を読み取ることが出来るし、かなり経験を積んでもNo.8の見方に引き込まれる素直な性格の人もいるでしょう。フムフム面白い目安だなーと、見て、読んで、「今、この段階かしら」と、楽しんでいただければ幸いです。 いろいろな時期に、いろいろなものを、いろいろな考えと方法で、最高の絵を描けばいいのでは・・・
と、思います。

 

dessin&comment■Kawano


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